“リビア” の旅 ベンガジからアテネへ “ドバイ日航機ハイジャック事件”

リビア ベンガジ空港

“リビア” の旅、のつづきをもう少し・・・

トリポリとベンガジ間は、1,200キロ程、ちょうど東京・博多間ほどあるのですが、結局3回行ったり来たりすることになってしまいました

時間があったとはいえ、よく行ったものです

ベンガジからアテネへ飛んだのは、1975年の1月1日でした

前日の31日、大みそかの年明けの時には、ベンガジ港に停泊している船から “ボーボー” と、一斉に汽笛が鳴っていました

わたしの1974年は、リビアとの時差分、7時間長くなり、1975年はその分だけ短くなったということになります

ベンガジ・アテネ間は “リビアン・アラブエアライン” という航空会社の、小さな飛行機でした

何時間か遅れて出発した飛行機は、窓から外を見ると、明らかに飛ぶスピードが遅く、けっこう揺れました

無事、アテネの空港に着陸した時には “助かった・・・” とばかりに乗客から一斉に拍手と歓声が起きるほどでした

そこで機内では、揺れて食欲のない乗客から、アテネへ着いたら食べようと “食べないんだったらちょうだい・・・” ラッキーとばかりに機内食を集めさせてもらいました

すると、離れた席の乗客からも “これも・あれも・・・” と山のように集まることになりました

“ベンガジ空港” では、そのわずか1年半前ですが、1973年7月、日本赤軍らによる “ドバイ日航機ハイジャック事件” という前代未聞の事件が起きました

“テルアビブ空港乱射事件” の犯人の釈放と500万ドルの要求が目的でした

ハイジャックされた日航機は、ドバイからダマスカスを経て “ベンガジ空港” へ着陸しました

ベンガジ空港で、ほとんど日本人だった150人の乗客を解放し、飛行機を爆破して、リビアに投降しました

ハイジャック犯は “カダフィ” の援助のもと、国外逃亡してしまいました

そして、1977年には、その時逃亡した赤軍派のメンバーらによって再び “ダッカ日航機ハイジャック事件” が起きることになります

バングラデシュのダッカに強制着陸した犯人たちは、日本に拘留中のメンバーの釈放と600万ドルを要求します

そして “超法規的措置” によって、釈放を受け入れた6人と600万ドル手にし、アルジェリアに飛んで投降し、解放されることになります

結局、リビアには3週間程滞在することになったんだけど、日本人はもちろん外国人にもほとんど会わなかったよ

“ベンガジ空港” へ行ったのは “ドバイ日航機ハイジャック事件” からわずか1年半後だったのね

日航機を爆破したので、空港はしばらく使えなかったらしいけどね

“ダッカ日航機ハイジャック事件” の “超法規的措置” は、軟弱だという意見など、いろんな議論があったわね

福田首相の “人の命は、地球よりも重い・・・” ね

“連続企業爆破事件” の犯人たちが、釈放されたのね

日本の大手の新聞やメディアは、このあいだ刑期を満了して出所した赤軍派の “重信房子” を、いまだにヒロイン扱いしているわね

当時日本の、特に若者は要注意で、ヨーロッパの空港で、別室に呼ばれて調べられたことがあるよ

アテネへ・・・

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